※何故かライトはメロにとっつかまっています
時々メロの薄い胸板は酷く軋む。まだ発達し切っていない肋骨に薄く被せた成長途中の筋肉では抱えきれない何かを身中に飼っているようだった。ふとした瞬間に暴れだすそれは、いつ鳩尾を食い破るようにして外に溢れ出してもおかしくない程膨張している。自分はいつしか食い殺されて何か別の物に変容してしまうのではないか、という不安を覚える程、日に日に募っていった。嵐のように全身を駆け巡りメロを身悶えさせるそれは一般的には「恋情」、もしかしたら「愛情」と呼ばれていることをメロは知らない。知っているのはただ、五感の全てが夜神月という人間の奴隷となってしまったという忌々しい事実だけだった。その契約は一瞬のうちに交わされた。メロが初めて夜神月を見たときのことだった。ほんの僅かな一瞥。それ以来目が離せないでいる。
こうして目の前に月が寝ている今も、メロの視線は月の顔の上に固定されていて引き剥がすことは叶わない。メロの聴覚は月の僅かな寝息を拾うために研ぎ澄まされている。そして手は無自覚のうちに月の髪に触れている。その全てはメロの意図した結果ではなかった。月の側に始終いるせいで、様々な現実が破綻し始めていることは理解はしていた。自分の為すべき事を全て放り投げている。月以外には何にも興味が持てなかった。自分はこんなにも意志薄弱であったかと悔し涙が滲むほど理性が抵抗しても、暴力的なまでの欲望に抗うことは敵わないのだった。
月に出会うまで、ここまで自分を乱す人間が存在するということをメロは知らなかった。メロは、かつて育った場所を捨てたときに、全てを捨てた。愛情、友情、憧憬、憐憫、多くの柔らかく美しい物たち。全てを捨てた自分は研き抜かれた鋼のように強靭であるはずだった。なんのために生きてきたのだろうか、とメロは訝る。最低の更に底の澱みのような日常に降りてきたのは一番になるためであったし、メロは一番になるべきだった。それがメロの命題であるからには。しかしこの現状では、ただこの男に出会うがために地の底まで這って行ったようなものだ。這い上がるために身を落としたはずなのに、もう二度と飛び立てない気がする。空を見上げるよりもここでただ動物のように月と交わっていたいと思った。
寝ている月は起きている時のふてぶてしさが嘘のように稚い。シーツに覆われていない剥き出しの上半身についた赤い痕は月をおとなしくさせるためにメロがきつく縛った紐の痕だったけれど、自分がしたことも忘れてメロはそれを痛々しく思った。月の綺麗な皮膚に一片の傷さえもつけたくない。そう思っていることは嘘ではないのに、実際は今日も押し倒すまでに数発殴ってしまった。それでも抵抗をやめないのでナイロンの紐で縛った。体の自由が奪われると今度はメロを逆上させるようなことばかりを言うので猿轡をかませた。そうして大きな胎児のようになった月を泣きながら犯した。胸の痛みと苦しさで頭がおかしくなりそうだった。犯しているのはメロなのに、メロだけが泣いていた。月が失神してその激情が去ってしまえば、分かる。自分は崩壊しかけている。こんな自分は知らなかった。自分が怖い。自分をここまで追い詰めた夜神月もまた恐ろしい。恐ろしいのに、逃げることができない。道の先に破滅しかないことがよく見えていて、止れない。また胸の内で何かがのたうつ気配を感じてメロの背が総毛だつ。それが急速に膨れ上がって自分を何か化け物に変えてしまう前に捌け口を与えてやらねばならなかった。しかしどうしていいのか分からなくて途方に暮れる。
「ライト」
苦しさを溢すようにその名を紡げば、寝ていると思われた月がパチリと目を開いた。いきなり覚醒したかのようにまどろみの欠片も見せない強い光に射抜かれて、メロは目を伏せる。眩しかった。この人間が眩しすぎるから他の光が目に入らなくなるのだ、きっと。
「…ライト、ライト、ライト」
言うべきことが見つからないのでメロはひたすらその名を繰り返す。光と同じ名前。天体を象形していることは後で知った。似合い過ぎていて笑ってしまった。
多分縛られた痕が傷むのであろう、眉をしかめつつ、月が大儀そうに腕を伸ばしてメロの眦に触れた。全身が強張る。月からメロに触れたことなどただの一度もなかったから。指が横に滑って涙を掬っていることが分かって初めて、メロは自分がまた泣いていることを知った。
「そんなに辛いのなら、止めればいいのに」
聞いたことがない、少し掠れた優しい声だった。そしてその手つきもまた知らないものだった。優しい仕草と声で、相変わらず酷いことを言う。止められるものならとっくに止めている。涙もまた止まらなくて音を立ててシーツに落下した。
「…ライトがやめさせてよ」
充填された凶暴さが涙と一緒に滴り落ちる。苦しくて息が詰まりそうなのに光を感じた。その手が自分に触れて、その目が自分を映しているから。
「俺を助けて」
かつて誰にも言ったことがない台詞さえ零れ落ちる。どこまで人を弱くさせれば気が済むのか。
「ライトが俺を受け入れてくれればいい」
尊大な口調で虚勢を張って、願望のような祈念のようなそれを口にしたのに、優しい声は残酷に拒絶する。
「僕はもう駄目。メロには何もしてあげられないし、したくない」
「どうして?」
「昔全部持っていかれてしまったから、もう何もない。もう二度と誰かと何かを分かち合いたくない」
優しさはたちどころに霧消して、そして仮面を纏ったような無表情が現れる。触れられたくないものを守るための強制的なシャットダウン。そんなアンタが何も持っていないはずがない。この苦しさも痛みも涙もアンタと知り合うまで知らなかったものだ。だからこれはアンタがくれたものに決まっているだろう?
言い募るメロを宥めるように、また月の手が頬を撫でた。同じように触れているのにそこには誤魔化すようなおざなりさだけが残っている。
「なんで俺を拒むんだよ!」
「メロが駄目なんじゃなくてみんな駄目なんだよ」
そして小さな声で付け加える、「僕、生きている人間は無理なんだ」と。そう言って微笑んだ笑顔が透き通るように美しくて、メロの胸がまた軋んだ音をあげた。純度の高い狂気をそこに見い出して、恐れるよりも興奮した。ライトが気狂いであるなら、自分は獣だ、とメロは思う。月がつけた傷跡を舐め、涙を啜って生きる。もう手遅れに違いなかった。
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初恋まっただなかのメロと初恋の傷が癒えないライト。
ライトのほうが重症。
ライトの初恋はLだと信じて疑わない。
タイトルはC・スティーブンスの名曲から。
初恋の傷は深い、とかそういう歌です。