昔、まだ一日は長くて、なのにいくら遊んでも遊び足りなかった頃。幼稚園から帰ったわたしは、いつも彼の帰りを待ちわびていた。玄関のドアが開く合図で犬みたいに転がりだすわたしを彼は抱きとめてくれた。男の子も女の子もみんな一緒くたになってわたしたちは縺れ合って転がって遊んだ。夜の帳が降りるまで、彼は公園の王様だった。午後の日差しの中でも夕暮れのオレンジの世界でも、彼に敵う人なんて一人もいなかった。かけっこでも木登りでも誰にも負けない彼がわたしの兄であることは、幸せなことだと信じていられた。
帰り道、重ね合わせた手はただわたしに安心感をくれた。
彼が小学校の高学年に差し掛かった頃になると、気の早い女の子達は一人でに羽化しはじめる。つい昨日まで一緒になってかけっこしてたくせに、兄の前ではしとやかな手つきでスカートを押さえてみせるその仕草に、まだ子供だったわたしは訳も分からず嫌悪を覚えるのだ。今にして思えば、彼女達の方が先見の明があったというだけ。わたしは初めて、嫉妬という感情を知る。
「粧裕ちゃんのお兄ちゃん、王子様みたいね」
内緒話をするように、わたしにそう言った彼女の顔を今でも覚えている。わたしはもう、ただ誇らしい気分だけを抱えて生きているわけではなかった。どこか後ろ暗い感情が自分のうちに存在することに薄々気がついていた。その時はただ、それを覆い隠すことに必死だった。
きっとその頃のわたしは身中の感情の激しさを侮っていたのだ。抑圧し続ければいつか消滅すると信じていた。なんて愚かだったのだろう。
子供の日の成長は早い。日毎に眩しくなる彼から目を逸らし続けた時期のわたしはまるで餓えた動物のように気が立っていた。家にいれば苛々とし、学校にいけば周囲の男に絶望した。初めての恋に有頂天になる友達を内心蔑み、その一方で羨めばいいのかと自問した。こんな日は長く続かない。望んでいたのかそれとも拒んでいたのか、わたしもまた、自分で嵌めた枷を引きちぎるようにある朝目覚めた。ある朝起きて、鏡を見て、そして唐突に悟ったのだ。
兄だとか、家族だとか、父や母、そして世の中の常識、道徳、法律。
それらになんの意味があるのか。
わたしはただ一人の女として彼を愛する。
この想いはわたしの全て。そうと知ったとき身中の嵐は凪いで、わたしは再び生まれたのだ。もしかしたら、ただの自分に回帰しただけなのかもしれないけれど。
幼い頃、彼に似ていないことがとても嫌だった。母にどうして兄のような色の髪の毛に生んでくれなかったのか、と駄々をこねて困らせたこともある。「粧裕ちゃんはあんまりお兄ちゃんに似てないのね」という友達の声音に潜んだ哀れみさえも敏感に感じ取った。なのに、それが今はこんなに嬉しいなんて。
駅の雑踏に彼の後ろ姿を見つけたときの鼓動。それだけで世の中が薔薇色になる、なんてささやかな幸せ。並んで歩くわたしたちを、人はどう思うのだろうか。
(だって、こんなにも似てなければ誰も兄妹なんて思わないでしょう?)
「お兄ちゃん、あのね、遠回りして帰ろ?」
偶然を装って触れさせた小指に、ただわたしは胸の内でひっそりと吐息を漏らす。
-------------------------------------------------
抜歯に苦しんでいた紫さんへのお見舞い品。
お許しを頂けたのでサイトに載せてみました。
もっと粧裕月を!