テニスを始めたのは偶然だった。中学に入った時に何か運動をしようとは思っていたけれども、取り立ててテニスがしたかったわけではない。サッカー部に誘う友人と弓道部に誘う友人とテニス部に誘う友人に囲まれて、僕は入部希望調査表の上でシャーペンを転がした。その先端は嫌味なほどはっきりとテニスの字を指し示した。ただそれだけの話だ。
僕は、今のところは、その選択を後悔していない。正確に言えば、きっと、僕が選択したのではなく、テニスが僕を選んだのだ。それは、始めてすぐに気がついた。テニスは僕を裏切らない。僕の努力はいつだって正しい形で報われるのだ。今までの人生においても大体の面においてそうであったけれども、テニスをしているときほど強くそれを感じるときはない。僕の目がボールを捕らえる。僕の脳は手を伸ばせと指令を出す。僕の筋肉は命令を受け張り詰める。ロブ気味にあがったボールは上空の僅かな風に押されて格好の位置に落ちてくる、それを僕は捕らえる。面の中心でボールを捕らえたとき特有の感触は既に慣れ親しんだもので、それを僕の脳が快感と感じるのは、餌が出てくるボタンを押したサルみたいに反射的かつ動物的な反応なのだ。ボールの行方を僕の視線が追う。次のショットに備える必要がないことは、なぜか、僕には分かっているから礼を失わない程度に僕の体は弛緩する。コートの向こうで相手の選手が死に物狂いでラケットを伸ばすのがコマ送りのようによく見えた。絶対に間に合わないのに。
その瞬間、彼がラケットを放り投げるのを見て僕は少し驚く。人間は面白い。その勝利への執念は僕の目に好ましく映る。手を伸ばしたって絶対届くはずのなかったボールに、投げ出されたラケットは届いた。勿論きちんとリターンされることはなかったのだけれど、ラケットが弾いたボールは一応僕のほうへ向かって飛んできて、そしてセンターネットに阻まれて試合は終わった。
今日もテニスは僕を裏切らなかった。最後は少しだけ、ほんの少し、面白かったけれど一瞬の話だ。ボールはいつも僕の望む方向へ飛び、僕の望む方向へ落ちる。僕はテニスに選ばれたことを煩わしく思う一歩手前まで来ている。
「夜神、今年の大会も優勝するだろうな」
「月はテニスの女神に愛されてるからなー」
部室で着替えていると同じクラスの奴がふざけて僕の肩を抱いた。「テニスの女神」というのは去年まで顧問だった体育教師が言ったことだ。芸術を司るゼウスの娘、ムーサの話なら聞いたことはあるがテニスの女神なんているものか。あまりにも馬鹿げたその言い草は暫くテニス部の中で流行っていた。なんでもテニスの女神のせいなのだ。僕のボールが決してラインを割らないのも、セカンドサーブが必ず決まるのも、全て彼女が僕を選んだから、だ。
もしもテニスの女神なんてものがいるのなら、もう少し僕を楽しませてくれないと退屈過ぎて僕は死にそうだ。従順な女が詰まらないのはどこの世界でも一緒だろう。
次の日は朝から小雨が降り続いていた。5限目、教室の窓からコートを見下ろす。濡れたグリーンが鮮やかで、なのにその鮮やかさは僕の心を微塵も動かさなかった。部活に出席するかどうか、考える。いまだかつて僕は部活を休んだことはない。雨の時期やテスト前はなんだかんだと出席しない部員は多いにも関わらず。コートの白いラインが何かの光を反射して一瞬光った。部活を休んだことがないことと、休むことを考えたことがない、は僕にとっては全く別のことだ。水分を含んで撓んだネットが風に揺れている。僕だって、雨の日やなんとなくだるい日には部活をさぼることを考えていた。そうしなかったのは単にそれ以上やりたいことが見つからなかったからだ。生垣の隙間に転がっているボールを見つけて軽く舌打ちする。勉強、却下。昨日十分した。そもそも部活をはじめたのは勉強しすぎないためだ。読みかけの本、却下。期待して読み始めたのにたいして面白くなかった。見たかった映画、却下。週末に約束を入れてしまった。山元とゲーセンに行く?図書館に行く?家に帰ってゲームでもする?再び外を見ると濡れたコートは相変わらず僕を待っている。
水分を含んだボールはじっとりと重い。いつもより少し丁寧に、少しだけ力を込めたつもりだったけれど、狙いよりも僅かに上がりきらなかった。ネットに引っかかってこちら側に落ちると思った僕はコートを出ようとした足を止めた。それはまるで映画か漫画のように、ボールはネットに下腹を擦り付けるようにぶつかって、その線上で一瞬停止する。
こちら側に落ちたら僕の負け、向こう側に落ちたら僕の勝ち。
くだらない、それは分かっている。
ただの部内の練習試合だ。それも分かっている。
なのに、その瞬間僕の脳裡にある考えが浮かぶ。
テニスが、僕を、裏切る。ふいに思いついたその可能性に魅了される。
お前が、もし僕を裏切るのなら。
ボールが軽く跳ねる。落ちる。もう一度ネットに触れる。僅かに上昇する。停止する、落下が始まる、
そして、あっけなくそれはコートに落ちた。
今日も、テニスは僕を裏切らなかった。僕は違う。僕がテニスを裏切らないのは、単にそうするだけの理由がないからだ。僕はいつだってテニスを裏切ることができる。今日それは可能性から、予定の話になった。
傘を持っていなかった僕は小走りに家路を急ぐ。試合に勝ったのに、胸のうちが重い。単調さに押しつぶされそうだ。押しつぶされたりするような僕ではないけれど。相手のコートに落ちていく黄色いボール。それを見ながら感じたのが失望だったなんて、この先一体誰に言うことができるのだろう。この感情を分かち合うことのできる人はどこにいる?
とっぷりと日が暮れて僅かな街灯の明かりだけが照らす公園に人気はない。誰もいない。まるで僕の人生の暗示。寒気を感じて鞄を強く小脇に寄せたとき、その声は聞こえた。僕は石段を降りかけていた。そう僕は半ば落ちかけていた。背後から聞こえたその声は確かに僕を呼んでいた。
「夜神くん」
もう一度繰り返す。その声。聞き覚えのない若い男の声。
「警察庁夜神総一郎局長の息子さんでありその父への尊敬と負けないぐらいの正義感の持ち主」
僕はふらつきそうになる。後ろを振り向くことができない。
「そして自らも警察官僚を目指し過去に数件の事件へ助言をし解決に導き」
「今キラ事件にも興味を示している」
・・・キラ?キラってなんだ?
「その正義感と手腕を信じてもし誰にも漏らさないと誓って頂ければキラ事件に関する重大なことをお話したいと思っています」
普通に考えれば変質者だ。なのに僕は逆らえないのだ、その男に。彼が話したいと思うなら僕は聞くべきなのだ。
「誰にも言わないよ 何?」
「わたしはLです」
その男は、そう、言った。
(続く)
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このサイト初の続き物になる、なればいいな、なせばなる、、、。